ちんたら村 村長のブログ

村づくりのあらゆるプロセスを共有します

公助と共助

 

どうも。最近首裏にポチっと腫れができた

ちんたらむらの和志です。

 

先日、長野県で活動されてる保育関係者の方とご飯に行く機会がありまして、市をあげて保育や子育て環境にテコ入れをして地域起こしをされてる話を伺いました。

 

話を聞きながら頭の中をぐるぐるしてたこと

それは公助と共助についてでした。

 

行政の支援が広まれば広まるほど

住民にとって住みやすい地域になる。

しかし

それは刹那的な話で実は反対の現象も起こるのでは?というモヤモヤは晴れず

 

これは現場を見にいかないとわからんなと思いながらも頭から離れませんでした。

 

例えば

保育施設が生まれたことで、親の保育機能が低下し、子育てハウツー本が爆売れをし、どうやって子どもと関わればいいのかわからない人 親が増えている現象が起きていたり

 

 

学校教育が施行されてからひと時は成果が上がったのかもしれないが

誰でも勉強ができるような環境になったことで昔の寺子屋のように自ら学ぶ意思を持つ子どもは少なくなってしまう現象が起きていたり

 

 

電気や水道の設備が整ったことで、無くても生きていけるサービスが整いすぎて、それがなければ生きては行けない生活になってしまっています。

 

医療が進みすぎて、介護サービスが必要となり、介護サービスが充実しすぎて、介護されるのが当たり前になった時、

 

高齢者の方々は長生きできるというその現状だけでは満足できなくなってきました。

政治の中で出てくる話の多くは公助のこと

 

しかし、その公助を普及したところで問題は解決しない。むしろ悪化する。と考えてしまうのは僕だけでしょうか??

 

たしかにセーフティネットは必要だと思いますけれども

 

どこまで支援するのか

 

支援の目的はあくまでも要支援者の自立にあって、それ以上のものは

時としてその人を蝕んでしまうことがあるのではないか?

 

今の社会の当たり前の中で

どれが支援過多なのかを個人で考えて

頼りすぎないということが大切なように思います。

 

反対に共に助け合う

「共助」が必要になってきていて、地域性やご近所とのコミュニケーション

特に災害時にはこれがあるかないかで大きな差が出ます。

 

子どもたちが

支援されるのが当たり前で育つのか

共に助け合うのが当たり前で育つのか

 

今のままでは支援されるのが当たり前な世界です。

 

かつて日本は共助の環境で豊かな文化を作ってきていたが、

明治維新後に公助が普及してくると次々に文化が衰えてきてしまっています。

 

かつての

あらゆる自然災害に負けず、少ない資源の中で食、芸能、芸術、を磨いてきた日本の文化の根本には

 

人同士の共助

他の生き物との共助

自然との共助がうまく循環していたことが挙げられると思います。

 

それだけ周りと助け合う

つまり調和し合う力

周りが何を求めているのかを感じ取る力

 

肌感覚で調和をしていく力に長けていたということ

 

奥ゆかしさが美学というのは

相手が何を求めてるかを

感じ取る力が長けてないと、

ただの自分勝手な勘違い美学ですもの。

 

公助はいっときの調和をつくるための制度

 

共助は生きてる限り変化し続ける環境の中でどう周りと手を取り合って生きていくかという永遠と続く調和をはかる営みです。

 

行政や政治に頼っていると

このことが頭から抜けていくように思います。

 

と行政支援が元で上手くいってる例をこの目で見たら少しは納得するのかなと思いますが笑笑

 

私はひねくれ者ですね。

 

明日は台風が来ますね。公助に頼らず共助で乗り切りたいものです。