与えられすぎることについて
村長の和志です。
村の教育の運営方法について
保育や子どもの受け入れを始めてから一年が立った今、頭を悩ませています。
村の教育で大切なことは
周りの環境から人々がどれだけ「学びや経験を掴み取っていけるか」につきると思います。
言葉で伝える教育や
体験を提供する教育は
現代に腐るほどあります。
しかし私の考える学びのプロセスには
伝えられることよりも
体験させられるよりも
本人の心が学びたいと思うかが出発点にあるべきだと思っています。
そのプロセスを考える時
どこまで教育者が準備をするかについての匙加減は難解極まるもので、それは一人ひとりによっても異なってきます。
村がまだ不便だったころ
住人も来村者にも主体的な学びに溢れていました。水がないからどうすればいい。床がない時に作るにはどうすればいい。などなど
不便な状態での学び環境は
とても豊かだった。
それはそれぞれがより良い環境づくりを心から求めた中に学びがあったからだと思います。
そして、その場で学んでいたのは子どもではなく大人たちでした。
子どもに経験をさせたいと連れてきた結果。
子どもよりも大人たちの学びにつながる要因が不便だった村環境にありました。
子どもの受け入れを開始してから1年立ち
環境が整ってきたからこそ
その壁にぶつかっています。
そんな風に頭を悩ませていると東洋経済の記事でこんなものを読みました。
https://toyokeizai.net/articles/-/456159?ismmark=a
「与えられることに慣れた子どもの残念な行く末」
強烈な見出しですが、衣食住の環境を0に近いところから作ってきた私としては、共感する部分が多くありました。
どこまで環境として用意をし
どこを用意しないのか。
村づくりのプロセスを関わる人達に共有したい。そして体験も共有したい。
手作りで進める中に様々な学びがある。
全ての人の学びの場にしたいちんたら村は
村に関わる方々とそのようなことを共通認識として今後も村づくりを進めて参りたいと思います。