ちんたら村 村長のブログ

村づくりのあらゆるプロセスを共有します

教育とは

 

こんにちは

ちんたらむらの和志です。

 

最近ちんたらはうすに久保ちゃんという学生が泊まっています。

 

その中で教育について考えさせられる場面がいくつかありまして、子どもの教育に携わりたい自分にとって貴重な学びとなっています。

 

その学びを言葉にしておこうと思います。

 

 

後輩の教育

子どもの教育

どちらも同じ原理原則だろうと思っていました。

 

相手が何をしたいのか

何を考えているのか

何につまづいているのかを察して

 

相手の話に耳を傾けて

自分で考え行動できるようにサポートすること

勇気づけること

見守ること

 

これを大事に子どもと関わっていましたし

学生の久保ちゃんにもそのように関わればいい

と思っていました。

 

一緒に暮らしていると

自分とは違う相手のやり方に触れたり

 

自分が大切にしていることを

相手が大切にしてるとも限りません。

 

自分がこうして欲しいと思うことを押し付けるのはしたくないのですが、、、

 

これは教えたほうがいいのか?

伝えたほうがいいのか?

 

と迷う場面がいくつもあります。

 

言葉で教えられて学ぶことよりも

自分が身をもって経験することの方が何倍も大事だと知っているからです。

 

特に共同的な暮らしの中に

学びや教育がある。と考えている自分にとって

言葉で伝えずに教育をするためには

自分の姿で表すしかないのか?

と考えてしまいます。

 

 

一緒に暮らしていて

道徳的にどうかを後輩に説くことを躊躇する自分がいます。

 

なぜなら

こちらが思っている以上にその人にはその人の都合というものがあるからです。

 

どう伝えたらいいか

どう接したらいいか

どういう風に自分はあればいいのか

 

久保ちゃんからこちらが教育されているように思います。

 

また、自分が昔

人に言われて意味のわからなかったことや

納得できなかったことが

久保ちゃんを通して思い出されて

 

なるほど、、、

だからあの時あの人は自分にそう言ったのか、、、と合点がいくのでした。

 

 

過去の自分の姿と重なり

自分がした過去の失敗を久保ちゃんもするんじゃないかと勘繰り

教えたくなる気持ちが出てきます。

 

しかしそこをぐっとこらえて

本人の姿を尊重し、見守る。

 

人を育てようとすると

自分が育てられる。

 

幼児からの学び

学生からの学び

 

やはり同じでした。

 

共同生活の中での育ちや学び合いは特に強烈で、目の前で起きた出来事をどう受け止めるかを毎回考えるチャンスがあります。

 

相手はどう考えているのか

自分はなぜそう考えるのか

 

を暮らしの中で丁寧に見つめていくこと。

 

 

日常の中にこそ大きな学びがある。

 

 

ちんたらむらでは哲学の時間という名で

テーマに沿って話をし、表現しあったり

意見を言い合ったり、相手の考え方に触れる対話の時間を大事にしています。

 

先日は久保ちゃんに話したいテーマはある?と聞くと

「気遣いについて話したい」

と言いました。

 

久保ちゃんは久保ちゃんなりに

僕が言わなくても学んでいるのでした。

 

 

相手を認めること

尊重すること

 

その中に大きな学びがある。

 

人を教育するということはどういうことなのかまだまだ答えは見つかっていませんが、

歩いている道は信じていい気がしています。

 

以上、教育とは

でした。

 

これからより深めていきたいと思います。

今できること

皆さんこんにちはちんたらむらの和志です。

昔の暮らし体験を始めて3週間が経ちました。その間に世の中はコロナで大変な騒ぎになっていて、僕も買い物で街に降りた際やテレビのあるところに行って情報得た際に
驚くようなことが報道されています

村にいると都会との距離や温度差をすごく感じるのですが、今僕ができることを今回まとめてみようと思います。


世の中の多くの人がオンラインの動画や電話、ライブ配信など、、、

家から出れない中でも
豊かに生活する技術を高めているように思います。

そんな中僕は村の中で
感染のリスクも少ないので、外に出て畑を耕したり川で洗濯をしたり家を作ったり、動物の世話をしたりと、、、
オフラインでの体験を深めています。



社会の流れとは真逆の方向に行く自分を俯瞰してみたときに、逆を行く自分だからこそ発信できることがあるのではないか?

何か世の中のためになることができるんじゃないか?

 

そう考えるようになりました。

そんな僕が

僕だけが今発信できること

それは生身の体験の価値についてです。


この生身の体験が足りてないと僕は今強く感じています。
それは自分自身に対してです。
自分で家を建てて畑を耕し水を汲み生活していると自分の知恵のなさに驚きます。

 

僕が住んでいる富津市豊岡の志組と言う部落の住人たちは、昔から自分たちのことは自分でやってきた人たちでした。

部落に水道がひかれたのも5年前です。
水道が引かれる前は自分たちで山や川から水を引いて生活していました。

昨年の台風15号の際にも屋根が飛んだり電気が来ない日数が3週間もあった中でも
部落の人たちは昔から自分で生活する知恵をたくさん培っていたので、、、
本当にたくましく災害の時も暮らしていました。

 

そんな部落の皆さんと接していると自分の生きる力のなさを痛感します。一緒に作業している時も自分の頭の悪さを痛感します。

もちろん初めてやる作業だから要領が良くなかったり失敗をする事があると思うのですが
普通に考えたらわかるようなこともできない自分がいます。(部落の人たちの経験や思考力、培ってきた知恵を教えてもらう尚更痛感します。)

考える力は自分自身
あると思っていました。

しかし実際目の前の手を動かす作業や
暮らしを営むためのやることを目の前にしたときに、本当の意味での「頭を使う」「考える」「知恵を使う」ということを教えられているように感じます。

 

これは昔の暮らし体験を始めてからより一層そのように感じることが多くなりました。

自分の力で暮らしていくと言う事はたくさんの知恵がつきます。

物事の道理も教わります。
その通りの中に本質があるようにも思います。

昔の人が自然や暮らしの中から学びを得ていた意味がよくわかりました。

遊びの中で「非認知能力が培われる」と言われていますが、「暮らしを手作りする」中にも非認知能力を高める要素があると確信しました。

今世の中はどんどん便利な方向に進んでいますが、、、

 

コロナの対策についても

国民一人一人にできることがあるはずです。

自粛以外にもできることはあるのではないでしょうか??

 

都会で生活する選択肢を選ぶということは

感染が広がる事態を生んでいることにもつながります。

暮らしを手作りしていく経験は
自分の力で生きるという人間の基礎力を育てることに繋がっているように感じます。

 

反対に今の都会での生活の中でこの要素がどれくらいあるのか、、、と考えてしまいます。

学校でやってきた勉強が
村での暮らしで結びつくのです。
生物、物理、算数、国語

無用じゃなかった、、、今からでも勉強の必要性を感じました。

学校でやっていた勉強が村の生活で生きるのです。。。

今の小学生達に体感してほしい
そう強く思います。


明日から村に電波が届きますが
この昔ながらの暮らしの中で培われる知恵や大切なことを発信していきたいと思います。


自分自身も学び続け
この学びを周りと共有していきたいと思います。

オンライン化が進む今だからこそオフラインの豊かさをオンラインで届けてみようと思います。


今できること

でした。

昔の暮らし体験をしてみて

 

みなさんこんばんは。

ちんたらむらの和志です^_^!

 

ちんたらはうすに引っ越して今日で一週間が経ちました♪

四畳半の部屋のみだった1日から考えると結構住環境は整ってきたかな??とか思っていますが自画自賛ですかね笑笑

 

家に住みながら家を作るのはとてもとても楽しいもので、暇な時間があったらトンカチとのこぎりを持ってトンテンカンしちゃってます笑

 

あ〜早く囲炉裏を復活させたい!

五右衛門風呂を作りたい!

ロフトを作りたい!

 

と次から次に作りたいものが出てきますが

楽しいひと時を味わいながら作っていきたいと思います。

 

さてさて、今回のテーマは

 

昔の暮らし体験をしてみて

 

です。

 

いやぁ〜思っていた以上の経験になっているのでちゃんと文章にしたいですなぁ。

 

どういう部分が思っていた以上に当たるのかというと、、、

 

ずばり!!

 

やらなきゃいけないことが多い。です笑

 

思っていた以上に多かったです。

まぁ僕みたいな人間は苦労を想像する力が足りずにとりあえずやってみちゃうので、尚更ですが、、、

 

例えば

かまどでご飯を作ると手にススがつきます。

 

その手で他の食器や洋服を触ると黒くなります。

 

黒くなった手や食器を洗うためには水を使います。

水を使えばなくなるので汲みに行かなければなりません。

汲みに行ったら運ばなければいけません。

 

という具合に、一つ想定外の出来事がおきると(かまどで料理をするとススがつくこと)やらなきゃいけないことが芋づる式に増えるんですね笑笑

 

やってみてわかったのですが、

かまど調理するなら手袋つければススがつかなくて済むということ

 

という具合に一つ知恵がついたのでした。

 

 

ススがつくなんて

考えてみれば当たり前なのですが、、、

生活をしていると他のことを考えながら行動してたりするので意外とポカをすることも多く、

無駄骨を折ったり

二度手間をしたり

無駄使いをしてしまったりがとても多くなっていました。

 

 

他には、

食料も自給したいので

猟師さんがくれる猪や鹿も大事な食料です。

 

今までは水道が使えるところで捌いていたのですが、むらに暮らすようになってからは水道がありませんのでまぁ大変

 

血抜きをしても水で流さず地面に付着したままに、、、

そのままにしておくと大量のハエが来てしまうので火を焚いて血のついた地面を燻しました。

 

肉を冷やすのにも冷蔵庫がないので水で冷やします。

 

猪一頭からだと15キロほど肉が取れるので使う水も30Lオーバー。

貯蓄してた水は50Lなのですぐに水がなくなってしまい、また水を汲みにいくはめに、、、

 

 

水道をひねると水が出る。

スイッチを押せば火が出る。

 

そんな便利さとは程遠い生活を一週間してみて

昔の人がなんであんなに知恵が多いのか

とっても納得したのでした。

 

ないから知恵を使って生きていけるんですね。

 

この知恵を使って生きていくことが

今の時代に役に立つのか立たないのかは僕にもまだ分かりません。

 

もしかしたら、そんなことに知恵を働かせることをしないでハイテク機器にお任せして他のことを考える時間に当てた方がいいのかも知れません。

 

しかし、

今のところ僕の考えでは

ない中で知恵を使ったり、他の人と助け合ったり、その手間を楽しんだりすることで得られる価値がある考えているので、この昔ながらな暮らしは継続していきたいと思います。

 

やること多いですけどね笑笑

そういう手間がかかることが嫌いな人からしたら、むらに来るのは嫌になるかも知れませんが、、、笑

 

ちんたらすることは

手間をかけること

知恵を働かせること

時間を面白がること

なのかもしれません。

 

以上、昔の暮らし体験をしてみて

でした〜!

物の循環、価値の循環

どうもちんたらむらの和志です。

 

 

先日の「私ごとですが、、、4月から個人事業主になります」の記事を読んでくださった方々、シェアしてくださった方々。ありがとうございました。

 

ちんたらむらが村民だけじゃなく色んな方々に支えられて作られていることを改めて実感いたしました。これからもちんたらすることを大事にしつつ作っていきます!

 

 

それでは、「物の循環、価値の循環」始まり始まり〜

 

先日ちんたらむらのお隣の牧場主さんからトラックをお借りして、

東京の街に行き様々な物をいただいてまいりました。

 

中には購入したものもあったのですが、貰ったものの中には

本当にいただいてしまってよろしんでしょうか、、、?というものもたくさん含まれていて、本当にありがたい貰い物Dayとなりました。

 

いただいたものは

・キッチンのシンク

・キッチン台

・2連式かまど

・床の基礎材(垂木30本ほど)

・フローリング材(14畳分)

・広間机の板

・板材(大量)

・ヒノキのまな板2枚

 

 

これらのものをいただいてきたのですが、満足度、充実度共に120%

 

そりゃあタダで貰ったので嬉しいのは当たり前なのですが

必要なものを知り合いの方からいただいたことで、そのものへの愛着は大きかったです。これからむらで大切に使っていきたいと思います。

 

 

そんな素敵なプレゼントをいただいてきたのですが、、、その裏で

今回なぜものを貰うという選択に至ったか

 

僕の中にある物に対する考え方をお伝えできたらなと思って今回この文章を書きました。

 

 

きっかけは昨年の台風15号の時のこと

千葉県の各被災地では大規模なゴミの処理が行われていて、そこに立ち会ったことがありました。そこに広がっていたのは家財道具の山たち、布団や家電、家具などが見渡す限り広がっていたのでした。

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屋根が飛んでしまい濡れてしまって使えなくなったものもありましたが、中には使えるものも大量に捨てられていました。

 

あぁ、世の中の家庭にはこれだけのものがあるんだ、、、と改めて実感をしたのでした。

 

そしてその次にちんたらハウスを作るべく空き家を購入した時のこと

 

その空き家は当時住んでいた状態そのままで残されていて、

前の持ち主は

ものを大切に使うと同時に

家電や様々な便利グッズを買うことに喜びを感じる世代の

昭和初期生まれの方だったので

空き家の中には様々なものがあふれていました。

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その時も

あぁ、今ある地方の空き家には様々なものが取り残されているんだ、、、

ということを知ったのでした。

 

現在日本全国にある空き家の数は846万世帯

 

もし全ての家庭に冷蔵庫があったら846万個

世の中で余っていることになります。。。

 

僕は地球の環境をこれ以上温暖化の方向に変化させたくないので

あまり物を消費することは好きじゃないのですが、

この事実を知った時に自分のできる選択として

もし世の中に使っていないものがあったら

それを使わせて貰おう。

 

そういう風に考えるようになったのでした。

 

 

日本は食品ロスも多いですが

物のロスも世界的に見ても多い側です。

 

消費することについての考え方は最近少し変わってきて

「消費することにも意味がある」

 

という視点を持つようにもなったのですが

 

やはりこの事実は環境を悪くしたことへの物的証拠に十分な物だと思います。。。

 

 

そして実際に物を貰ってみて

そこに値段以上の価値が発生しているようにも感じたのでした。

 

物をタダでもらう(あげる)中には

相手への思いが詰まっています。

 

この人に使って欲しい

この人から貰えた

 

この人のためになりたい

この人に恩を返したい

 

0円の物のやり取りの中に

お金以上の価値の交流があったように思います。

 

もし世の中に余っているものがあるとしたら

それはもしかしたら人と人が生み出す新しい価値の宝箱かもしれません。

 

 

タダより高いものはない

 

という言葉がありますが、、、、

本当の意味は違うのかもしれません。

 

 

ただのものを貰うとあとで高くつくぞ

 

ではなく

 

ただのものにはお金以上の価値がある。

 

のかもしれません。

 

今後もちんたらむらでは様々な人から様々なものをいただいて

村を作っていく予定であります。

 

今後もどんな物の循環と価値の循環があるのか

楽しみです。

 

物をくださったみなさんありがとうございました!

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写真は材木をたくさんくださった神奈川県藤沢市の佐々木材木店様 

 

私ごとですが、、、4月から個人事業主になります

 

どうも。ちんたらむらの和志です。

 

今回はあと二週間後に迫る4月からの活動について

自分がより前に進むために

明日からの時間をさらなる村づくりに向けるために

文章として残したいと思います。

 

 

昔から自分はやる環境を自分で作らないとやらない性格で

恵まれて育ったこともあり、時間は有限だということを忘れてしまう。

 

しかし、3.11の東日本大震災で被害にあった大岡小学校の慰霊碑を訪れた時に誓いました。

「子どもたちが自分の命を全うできる社会を作る」と

 

姉を亡くした時に誓いました。「大切な人を失うことはもう二度としない」と

 

 

それでも、時間は有限だと勘違いしてしまう性格です。

 

「村での事業は来年からだから、、、

今年はゆっくり土台づくり。」

 

本当にそれが僕はしたいのでしょうか???

 

いいえ。違う。

 

僕は村を作って、そこで

「子どもたち」が

自分のやりたいことに夢中になって遊びまわり、

知りたいこと、やってみたいことをとことん探求して、

大人たちが驚くような新しい世界をどんどん切り開いて行く未来

 

「大人たち」が

自分の道を歩きながら

子育てを豊かな人間関係に囲まれながら

子どもの成長を喜び、感動し、楽しみながら

子どもたちに「大人って最高だろ」っていう背中を見せながら

子どもたちにバトンを渡せる世界を作っていく未来

 

 

それを作りたい。

 

 

そんなことを思ってる僕は

ゆっくり土台を作りたいんじゃない

 

しっかりした土台を作りたいんだ。

本当の気持ちは前のめりになりたい。でもそれをさせないのは

 

不安、勇気のなさ、覚悟のなさ、根性のなさ

 

そんなものは、、、、

やっていれば消え去る。

 

行動していればいつの間にかなくなっている。

 

僕は今までの経験からそれを知っている。

 

なら

 

やれ!!!!

 

 

という思考を

田植えの準備をしてる時になぜかしたんですよね笑

 

 

実は3月初め頃には今の職を辞めることが決まっていました。

そこから、村の近くのデイサービスや牧場、観光協会などでアルバイトをしながら

村づくりを進めて、村のハード面を整え終わった来年度から

宿泊や、研修、暮らし体験事業を始める予定でした。

 

しかし、

ハード面を整えるのに本当に1年必要なのか???

アルバイトを僕はしたいんじゃない。自分で稼げるようになりたい。

 

だから、、、4月から個人事業主として自分で価値を生み出して

お金をいただきながら生計を立てることに決めました。

 

 

正直この1年間、様々な人が村に遊びに来てくださいました。

その方々からお金をいただかなかったのは

自分の自身のなさ

お金を取らなくていい世界だったら

文句も言われないし、喜んでもらえる

 

その安心、安全な世界に甘えていたように思います。

 

個人事業主としてやっていくことは

村の暮らし体験事業

 

村での暮らしを体験したいという方からお金をいただいて

宿泊、食事、農業、ジビエ、畜産、食品加工を経験できるものを考えています。

 

お風呂は竈焚き

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料理も竃で

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お台所の目指している形は

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こんな感じ

 

 

6月からは狩猟もして収入を得ようと考えています。

 

空き家改装イベントも並行して行います。

 

今年の冬頃には村のハード面が整い

満を持して来年の4月から村の事業をいけるように

 

まずは今年の春。

勝負の春です。

 

ちんたらハウス

がっつり

作るぞー!!!!

 

 

4月からは作り途中のちんたらハウスに移り住み

村の暮らしの土台を作っていきます。自給自足を心がけて。

 

そのためにも3月の残り時間は非常に貴重です。

あー楽しみだーおらワクワクすっぞ

 

先日、村の近所の方から

「ちんたら」の同義語はなんですか?と聞かれたので

 

「無我夢中」と答えました。

 

ゾーンに入ります。

 

以上、私ごとの決意表明でした笑

 

これからもちんたらむらをどうぞよろしくお願いいたします!

 

 

先生とお兄ちゃんの違い

 

どうも。ちんたらむらの和志です。

先日久しぶりに1歳、5歳の子どもたちと関わって

感じたことを改めて言語化したいと感じたのでブログに投稿します。

 

 

先生とお兄ちゃんの違い

です

 

始まり始まりー

 

早速なのですが今回書きたいのは

先生として伝えられることと

近所のお兄いさんとして伝えられることの違いについてです。

 

 

目の前の子どもが何かをしているときに

子どもが聞いてもないのについ教えたくなっちゃったり

自分の考えをつい話したくなる時ってありませんか?

 

僕はめちゃくちゃあります。

 

例えば子どもが水道の水を流しっぱなしにしてる時

 

「もったいないよ」

 

と言いたくなります。

 

保育士をしていた時には子どもに伝える前に

それって本当にそうなの?と考えるくせがついていたので(特に子どもに何かを教える時には)少し見守って考えてみていました。

 

その時に思い至ったのが、、、

子どもは水遊びが好き→→→川だったら水が勿体無いとかは子どもに言わなくてもいい→→→幼稚園っていう限られた環境の中に子どもを入れちゃってるから水が勿体無いだけ→→→だから子どもに頭ごなしにもったいないでしょう!というのではなく、事情を説明することはやっぱりマスト→→→伝えて終わりじゃなくて子どもが水遊びを思う存分できる環境を作るのは大人の役目だから明日までには作ろう。

 

という思考でした。

 

先生という立場にいると正解(その時に誤解のないように適切に)を子どもに伝えないと、、、という思いでしたが、一歩引いてみると物事ってそんなに単純じゃないし、色々な側面がありますよね。

 

水にしても、

そんなこと言っても日本は水が豊かだからそういう風に考えられるだけで、勿体無い水の使い方をしてる子がいる時に「日本は水が豊かにあるけどそうじゃない国もあるんだよ?」と伝えて見るのも僕はありだと思うんです。

 

 

他にも「もったいない使い方をするともったいない婆さんが来るぞ」とか「もし地震が起きた時にはタンクの水が大事になるから勿体無い使い方をしちゃダメ」とか色々な伝え方があると思います。

 

先生や親等のポジションから伝える言葉って子どもに与える影響は大きいと思うんです。特に幼少期の頃は。

 

そんな中地域のお兄ちゃんが

「おじさん勿体無い使い方をする子は遊んであーげない」

「俺も混ぜてー!」

「こうやると勢いよく出るんだぞ?」

など先生だったら絶対言わないような言葉で様々な考え方を子どもに伝えてあげることには大きな意味があるように思います。

 

 

物事には色々な側面があって、人それぞれに考えがある。

ということを子どものうちに体験することは

 

正解を教えることよりもすごく大切なことに思います。

本当だったら先生もそうでありたいんですが、、、

幼稚園で1人担任ですと先生以外の大人と関わる時間が子ども達には少ないですからね、、、子どもたちと一緒に悪いことをすることも立場的にできないですし、、、

 

今回このようなことを考えたのには訳がありまして

先日村に来た子どもたちがジビエの文化に触れる機会がありました。

 

さばく所を見たり、実際に射止める所を見たり、食べたり

 

そんな中で事実としては、

農作物の被害にあって困っている人がいる。

増えすぎた動物たちが森や山を荒らして自然破壊をされている。

その結果そこに住めなくなる人たちが出ている。

などの理由が狩猟の裏側にはあるのですが、

 

子どもたちにもその子なりの「かわいそう」と思う理由があったり

「なんでそんな悪いこと(鹿を殺すこと)をするの」と思う根拠があったりします。

 

そこに大人として事実を伝えたい気持ち(先生的な)と

 

もっとフランクに

 

「でもみんなが食べてる豚とか牛とか鶏の方がもっとかわいそうなことされてると思うんだけど。だって生まれた時から檻に入れられて自由なところにも行けず好きな食べ物も食べられずしまいにはたくさん何かをやらされて最後には必ず殺されちゃうんだから」的な個人の考え(お兄ちゃん的な)を伝える方法と

 

どちらが良いのだろう、、、と迷ったのですが

結局どっちもやってしまいました笑

 

情報量多くて子どもたち的には???

な部分もあったかもしれませんが、、、誰を信じてどんな風に考えて行くかはこれからの時代特に大事になって行くスキルかと思うので村にいたお兄さんという感じに事実とフランクな意見どちらも伝えて見たのでした。

 

先生をしていた時のジレンマを思い出したので書きましたが、よくよく思い出すと立場の違いなんて関係ないですね、、、笑

 

 

村の中で子どもが暮らすようになったら、言葉で説明しなくても伝わるんですけどね、、、それを目指して村づくりがんばります。

 

 

 

 

 

 

 

 

人と話すこと

どうもちんたらむらの和志です!

最近のコロナ騒ぎでちんたらむらのイベントを今後どうして行くか悩んだりしていて

ちんたらやりたいことをやって行く上でウイルスというのは非常に厄介だなぁと考えさせられていますが!ウイルスに負けずちんたら楽しいことを企画して行きたいなと奮い立っております。

 

さて、今回の内容は「人と話すこと」

 

僕自身

去年の四月から限界集落にすみ始め

人と話すことが圧倒的に少ない住環境、仕事環境に身をおく中で感じたこと

 

また、ここ数日

友人の力を借りて

zoomで私ごとの相談に乗ってもらっている中で考えたことを書いていけたらなと思います。

 

「人と話すこと」

大事です。

 

一人になってわかることってたくさんありますね^^;

それでは始まり始まり〜

 

 

自分のことは自分じゃわからない。

 

自分でわかったつもりになっている

自分自身の性格、特徴、考え方

それはすご〜く狭い視野で見える自分なのでした。

 

一人の時間を使って自分にスポットを当てて

自分の心の穴を掘ってみる。

 

掘ってみるきっかけの多くは

何か出来事があった時やもやもやするとき

 

なぜこうなるんだろう。なぜこういう風に思っちゃうんだろう。

なぜこう言われてしまったんだろう。なぜそんな表情をさせちゃったんだろう。

そんな時

 

 

過去の行動や発言を振り返り

考えてみる。

自分で掘ってみる。

 

多分

僕が持ってる掘るための道具はシャベルみたいなもの

 

粘土を見つけたり、綺麗な石英を見つけたり

少し珍しいものを見つけて喜んだり、安心したりする。

 

でも

他の人と話す時

いろんな道具を持ってる人がいる

大きなスコップや

もりもりっといろんなものをまとめて掘り返せるブルドーザー

削るようなドリル

地震を起こして地割れを起こせる人も

 

 

自分でやるときはシャベルで

自分が傷つかないように

 

 

他の人と話すときは

自分の土壌にいろんな刺激をもらえます。

 

時にはタネをまいてもらえたり

雨を降らしてもらったり

隕石を落としてくれたり

 

人と話すことはそんなことのように思います。

 

農業しててもおんなじで

自分で肥料をまいて

水をまいて、いろいろコントロールしてるつもりになっても

意外とコントロールできないものです。

 

自分の心も一緒で

自分一人で刺激を与えてコントロールしてるつもりでも

そんな簡単に自分の心を健康に保ったり

コントロールなんてできるもんじゃない

 

 

ここ数日のzoomでの会話は

僕の心に対して周りの人が耳を傾けてくれて

どんな掘り方をしたらいいか考えながら

穴掘りを手伝ってくれました。

 

 

そんな中で出てきた僕自身の心の言語化エピソードを一つ紹介しますね。

 

先日近所の人が僕のために

巻き寿司を作ってくれたようで

畑仕事から帰ってくると玄関にお弁当包みが置いてありました。

 

めちゃんこ疲れてて

あー今日ご飯どうしよう。

と思っていた僕は大喜び。

 

疲れた体に酢飯はめちゃんこ美味く感じたのでした。

 

 

それを僕は食べながら

どうお返しをしようか、、、と考えていたのでした。

 

 

そしてそこから話は変わり

zoomでの話題になります。

 

 

「親しい人に感謝を表すのが下手なんだよなぁ」

と僕が自分の悩みを打ち明けると

 

「どうして感謝をしたいの?」

 

という問いを周りの人がしてくれました。

 

どうしてだろう?

そういえば最近お弁当もらって

どうお返ししようか考えていたなぁ、、、

 と先日のことを思い出し、そのことを例に考えてみました。

 

いつも優しくしてくれるご近所さんだから

失礼なことをして嫌われるのが怖い

 

 

だから貰ったのならちゃんとお返しをする。

 

 

僕がしたい感謝は

 

そういうこと???

 

しかし自分が感謝をしなきゃと思っていた中には

そのような考えが混ざっていて、それは感謝じゃないことに気づいたのでした。

 

一つの出来事の中に

いろんな感情があって

感謝を考えていても実は感謝じゃなく自分の保守だったりすることもあるんですね笑

 

自分の思考なのに怖い怖い

 

でも話してる中で

「きっとその近所のおばあちゃんは和志くんに作ってあげれただけで満足なんじゃないかな?作ってる時が楽しかったりするんじゃない?」というお話をいただいた時に

 

確かに、自分も誰かにご飯を作るときは

感謝されるより「美味しい」って食べてもらえることの方が一番嬉しいなぁと考えました。

 

それに感謝をするなら

どんなお返しがいいかなぁと考えるときに

 

おばあちゃんは何をしたら一番喜ぶんだろう、、、

 と考えてお礼をした方が

 

 

自分も相手も豊かな関係になれるなぁと思い至ったり

 

自分のもやもやを少し話しただけで

ものすごく思考の幅が広がったり

自分の納得が見つかったりしたのでした。

 

 

 

自分のことをもっと知りたい。深めたい。

相談するという趣旨で誰かに話しをすることは

すごく必要な時間だなぁと感じました。

 

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ちんたらむらでする暮らしの共同体も

誰かがもやもやしていたら

誰かがそれに寄り添って話を聞いてあげられる

 

子育ての悩みや暮らしの悩みを共有できる

 

そんな「人と話すこと」の文化を大切に

村づくりを進めていきたいなぁと改めて感じました。

 

 

僕自身、もっといろんな人に相談に乗ってもらって

自分のことをもっと知っていきたい。

 

それと同時に誰かの話を聞けるような人になりたい。そう思いました。

 

なので近いうちにfacebookなり身近な友人たちと

もやもやを共有する会をやってみたいなぁと思います。

 

コロナで外に出れない分

テレビ電話で活動の幅を広げてみるのも一つ

 

 

いやー

人に自分の心を打ち明けること

本当に大事ですね。

 

付き合ってくださった皆様に感謝です。