ちんたら村の和志って誰ですか?
タイチョー!村を発見しましたー! こんな所に村人がー! はい。私が 第一村人の和志です。早くだれか発見してください笑
プロフィール記事を書きましたのでご覧ください!
では、早速
年齢:25歳
職業:保育
出身:東京都羽田空港(の近く)
育った場所:タイ(バンコク)と横浜と仙台
昨年度までは保育教諭として幼児期の子どもの先生をしていました。しかし、ひょんなことから2019年4月から、保育士として千葉県富津市にて自給自足の生活をすることにしました 保育士?自給自足?よく分からないと思いますが 村も作ります。
自分でもお手上げな人物になっております。少々長いですが興味のある方 お付き合いください
↓自己紹介ここから↓
僕には一つ夢があります
夢を持つことって本当に大事ですよね。ここ数年僕はこの夢のために生き
夢があるから背中を押してもらい、夢があるからこんなにも未来にワクワクできる。
夢って偉大
僕の夢は
「誰もが幸せに子どもを育てられ
そんな幸せな親に育てられた子どもが
もっと幸せな子育てをする未来を作ること」
幸せな子育てができる場所として
「ちんたら村」を作ること
2024年までには必ずちんたら村を作ると決めています。
こどもの時は、サッカー選手になるー!とか、お寿司屋さんになるー!とか
言っていたのに、、、「ちんたら村を作る!」というようになるなんて、、、
ちんたら村プロジェクトについては別記事にて紹介しているのでこちらでは割愛させていただきます。
さて、今25歳の僕ですが、こうなるに至るまでにどんな風に育ってきたのか書きますね
赤ちゃんの頃は東京の羽田に住んでいました。母親は幼稚園の先生をしていて 子育て仲間が多くいて、5家族くらいが一緒になってよく公園に行ったり子育てをしていました。僕には一人姉がいて周りの家族にも姉と同い年の女の子がいて、7人の年上のお姉ちゃんに囲まれながら僕は3歳まで育ちました。ハーレムですね。
0歳で父親から渡されたビール缶を飲み干し、泡を吹いて救急搬送されたり、母親が公園で「和志がいない、、!」と探し回っていると公園の和式トイレの水で、キャッキャきゃっきゃ楽しそうに水遊びをしていたそうです。
そんな僕ですが7人のお姉ちゃんと、その暖かい家族のみなさまに可愛がられながら育ちました。
その後も父親の仕事の都合でタイに移住し、今度はタイの大人たちに可愛がられて育ちました。また、同じ日本から移住してきた家族の方々もいて、本当に沢山の家族に触れながら育ったんだなぁと思います。
本当に夢のような生活でした。
当時タイは物価も安く経済発展途中だったので、運転手さんもいましたし、アヤさんと呼ばれていた家政婦さんもいて、その人たちにも沢山遊んでもらいました。自由に育ち、色々な人に囲まれて8歳まで過ごしました。
そこから日本に帰ってきてからが大変でしたが、、、笑
自由に育ってきたので日本の小学校のコミュニティでは、目立ってしまってよくいじめられてました笑 あんまりくよくよしていませんでしたがね笑
しかし、今でもその頃タイで一緒に生活していた友達と話すと「ねー!日本に帰ってからすっごいいじめられたよね笑」とそのことが話題に上がります。
さて、日本に帰ってきて小学校も無事に終え、中学に入り野球部で厳しい練習に耐えながら日々を送っていると姉が高校に通ってる途中で不登校になってしまいました。
父親は中国に転勤で家にはおらず、母親が沢山沢山、姉のお世話をしていて
僕は普通に高校に受かり高校生活を送っていました。
ずっと家に引きこもる姉があまりにも心配だった両親は姉を精神科の病院に入れました。
すると姉から電話が来て
「もう私は死にたい」と親に伝えていました。
なんとかその時期を乗り越えた家族でしたが、今度は母親がまいってしまいました。
僕が高校から帰って来た夕方、家が暗いので母親の寝室に行ってみると
母親が睡眠薬を大量に飲んで自殺をしようとしていました。僕が「お母さん、、、?」と声をかけると「和志、、、お母さん死ねなかったよ、、、死ぬ勇気がなかったよ、、、」と返事をして来たのを覚えています。
そんな思春期だったので僕も体に症状が出てきて
ある夏の深夜、とてもとても怖い夢をみてそれが夢なのか現実なのか分からず
家の網戸をぶち破りパンツ一丁で街中を走り回り、早く家から逃げなきゃ!
そうだ!電車に乗って遠くに行こう!あ、だめだ!パンツ一丁だから財布がない!
あ、やばい人に見つかる!よし!友達にお金を借りに行こう!と友達のお家に押しかけ、夜遅いにも関わらずピンポンを押して「わかったから和志落ち着け、、、」と優しくなだめられ
「大丈夫、大丈夫だから、よく考えてごらん。そんなこと起きないと思うぞ?一緒にお家に帰ろう」と家に送ってもらいました。
その時期は大変でしたね、、、笑
東日本大震災が起きたのもその時期でした。
無事に高校も卒業し、中学生の頃から夢だった保育士になりたくって大学に行くと、
家庭支援論や児童心理学教育心理学、など保育の勉強をして行くうちに、自分の家で起きていたことが全て腑に落ちて「なるほど、、、!だからうちは大変だったんだ、、、!」と納得していました。
また大学に行ってみると「うちもお兄ちゃんが引きこもりしてるよ?」という話はそこらへんに転がっていて「なるほどー自分だけじゃなかったんだなぁ」今の日本の家庭はどこもかしこも大変だ!と考えていました。
そんな中大学で「東日本大震災ボランティア募集」という張り紙を見つけ
元々正義感が強かったのもあり「日本で大変な出来事が起きたのに、、、
無関心でいるのはいやだなぁ」という思いから気仙沼や南三陸にボランティアという名目で足を運んだのでした。
そこでもまた人生の転機がありました。
「明日には自分の家も、財産も、家族も失う」
今という時が当たり前にあるわけではない
そんな経験をした方々から沢山のことを教えていただきました。
「お手伝いに行く」というより「教えてもらいに行く」そんな気持ちで震災のあった土地に足を運びました。
当時の気仙沼の幼稚園は震災直後から、年中無休で子どもを預かり避難者を受け入れ、避難所を運営するという考えられないことを任されていました。
震災後も5年間、夏休みなどの長期休みに無料で子どもを預かることをしていて
先生たちも出勤をしていて、本当に大変な苦労がそこにはありました。
命は今この瞬間から
いつなくなるか分からない
そんな当たり前のことをとても大事なことを教えてもらいました。
その後の僕の大学生活はガラっとかわり、友人との時間も喧嘩をするほど仲が深まったり「自分の命を何に使うか」本質的な生き方をするために参加したセミナーでは沢山の同志と出会い、今でもその同志の姿から刺激を受けています。本当に素敵な出会いを沢山いただきました。
大学卒業後仙台に就職し、保育教諭をする中で子どもたち、保護者の方々、同僚の先生方、沢山の学びをくださいました。また仙台で様々な活動をされている方々との出会いに恵まれ、自分のやりたいことは何か、どんな大人になりたいのかを沢山考えました。
僕は
誰もが幸せに子どもを育てられ
そんな幸せな親に育てられた子どもが
もっと幸せな子育てをする未来を
夢見ています。
和を志すと書いて和志です。祖父と父がつけてくれた名前に恥じぬよう
ちんたら村を作ります。
応援してくださる方、ちんたら村に興味のある方、このブログでは今後も僕の活動を綴って行きますので宜しかったらお付き合いください。
僕にできることは本当にちっちゃくて 今は想いを発信することしかできません。 もし僕に手を貸していただける方がいたら 本当に嬉しく思います。 今後もよろしくお願い致します!!!ここまで読んでくださりありがとうございました。